「嫌だ」と立ち向かう冒険心、「良かった」と安心する平穏。私たちがバラバラなのは、人類最強の生存戦略かもしれない。
人間は「菌の乗り物」であり「小麦の奴隷」?

前回、我が家の台所のミクロな同居人である「菌」たちの大活躍についてお話ししました。
【台所の科学】パン、味噌、ワイン……目に見えない相棒「微生物」たちがくれる、発酵の魔法
彼らの素晴らしい働きに日々感動しているわけですが、ふと視点を変えてみると、ある面白い仮説が浮かび上がってきます。
「私たちが菌をコントロールして飼っているつもりだけど、実は私たちのほうが、菌に『俺たちの住みやすい環境(快適な水槽や、美味しい栄養が詰まった台所)』を作らされているだけなのでは……?」

天動説が覆ったショック再びという感じ?
私が始めてその考えを耳にしたのは10年くらい前かな…
色んな方面から耳にするようになり、一般化してますね!
以前、歴史書『サピエンス全史』についての記事でも少し触れましたが、人類の歴史を振り返ると「人間は小麦の奴隷であり、菌の乗り物である」という見方があります。
(1)「サピエンス全史」を読んで。土を触り、パン焼く中で思う、宮沢賢治とシータの言葉
人間が小麦を栽培して文明を発展させたのではなく、小麦の側に「自分たちの仲間を世界中に増やして、快適に暮らさせてくれよ」とスカウトされ、人間がせっせと汗を流して畑を耕す労働(奴隷)をさせられている、という斜め上の視点です。
私たちは地球の支配者のような顔をして生きていますが、本当は地球という「菌と植物の惑星」に、ちょこんと間借りさせてもらっている居候(いそうろう)に過ぎないのかもしれません。

地球のために…
自然を大切に…
地球上の生き物と共存…
いかにも人間らしい(皮肉www)キャッチコピーです
たとえ奴隷だったとしても、私たちはこの「対価労働」を愛している
さて、そんな風に「私たちは植物や菌に働かされている居候だ」なんて言うと、なんだか寂しいことのように思えるかもしれません。
でも、中島みゆきさんの『麦の唄』を聴いていると、胸の奥から全く違う感情が湧き上がってきます。

偶然ラジオで聞いて…、考えさせられました。
あの地平線まで続く美しい麦畑の景色、
そして人類の行進曲とも言える、地に足のついた強い覚悟のメロディ。
あの歌を聴きながら想うのは、たとえ私たちが麦や菌の「乗り物」や「奴隷」だったとしても、「人間はその営みを、心から愛してしまっているよね!?」ということです。

朝早く起きて、休む暇なく働いて、天候に一喜一憂し、豊作の年には大喜びして、不作の年には頭を抱える。
生き物を相手にするのは本当に大変で、思い通りにならないことばかりです。
だけど、刈取りの季節や、
焼き上がったパンやパスタ、そして炊き立ての白いお米(東アジア、東南アジアでいう小麦の立ち位置)を口いっぱいに頬張ったとき、
私たちは心の底から「幸せ!」と満たされます。
そこには、生き物をじっくりと扱った者にしか味わえない、極上の達成感という恩恵があります。
これって、人間が人間を支配したときの、あの冷酷な「奴隷」や「家畜」の関係とは決定的に違います。(小麦や菌が上手くやっている、とも言える)
支配されているようでいて、お互いに最高のギフトを贈り合っている。
地球やミクロの生き物たちとの間には、どこか相思相愛のような、不器用で愛おしい「持ちつ持たれつの関係」が流れている気がするのです。

若き科学者の「嫌だ」と、私の「ホッとする」
ここで、前に耳にした、ある宇宙科学?の分野のお若い先生(私より10歳ほど年下の印象…)のお話を思い出します。
その学者先生は、最先端の科学を研究する中で、ふとこんな問いを投げかけました。
もしも、私たち人間には本当は『選択の自由』なんて無くて、
全てが大いなる自然の力によって引き寄せられている、最初から決まった『予定調和』のものだとしたら……?
そして彼は、こう続けたのです。
「僕は、そんな世界はちょっと受け入れられない。嫌です」と。
私はその言葉を聞いたとき、彼のやってきた研究への絶対的な自信、未知の宇宙へ立ち向かおうとする熱い冒険心、そして人間の可能性を信じる強い精神を感じて、「さすがだっ」と純粋に感動しました。
でも、それは私とは違って、という意味合いを含みます。
私自身の胸の奥には、彼とは全く真逆の感情がストンと落ちてきたのです。
私はその「全ては自然の流れによる予定調和かもしれない」というお話を聞いて、もの凄く安心し、ホッとしたのでした。
まるで、大きな「母なる海」に優しく包み込まれているような、不完全な自分のままで「いいんだよ」と全てを許されているような感覚。

グラン・マンマーレ!

ですよね〜
的なwww
抗う(あらがう)のではなく、「あぁ、それなら良かった。大きな流れに身を任せて生きていけばいいんだ」と、素直に心が軽くなるのを感じました。
人類最強の生存戦略、それは「バラバラなグラデーション」
ある言葉を聞いて、「そんなの嫌だ!自分の力で切り開きたい!」と闘志を燃やす、若き科学者のような人。
同じ言葉を聞いて、「あぁ、良かった」と、大いなる自然に身を委ねてホッとする、私のような人。
この、何気ないことに対する本能的、あるいは後天的な「直感の違い」こそが、実は人類がこれまで過酷な歴史を生き残り、そしてこれからも生き抜いていくための最大のカギ、
――すなわち「多様性」の本質なのだと思います。
世の中には、いろんな人がいます。
足が長い人(いいなぁ)、短い人。目の色、男女の差、運動能力の高さ、特定の病気にかかりやすい体質の人もいれば、なぜか全く平気なタイプの人もいる。
パクチーが大好きな人と、どうしてもカメムシにしか感じない人。眩しい光を見て、くしゃみが出る人と、出ない人。白は白という人と、白は200色あると思う人…。

私はパクチー好き、花粉症無し、眩しいとくしゃみ出る

目に見える分かりやすい「違い」ばかりを追いかけて優劣を競ったり、自分の信じるものを押し付けて一色にしたがるのは、なんだかとても勿体無いことのように思えます。

もちろん、私は宝塚歌劇の大ファンですから、
人間の肉体や声が創り出す、主観的で文化的な『美しいもの』を観て感動することは大好きです!

推し活と布教は良いけど、やっぱ、強気に采配したり、押し付けないことだね〜。
生物の歴史という長い目で見れば、「みんなの体質や考え方がバラバラであること」こそが、最強のバックアップシステムです。
よく聞くことですが、もし全員が同じ体質で、同じ考え方を持っていたら、地球の環境が大きく変わったときや、新しいウイルスが流行したときに、人類は一瞬で全滅してしまいます。

種の保存という観点でやはり有利
未知の領域に突っ込んでいく「積極的な人」がいるから人類の居住地は広がり、
拠点を守ってコツコツ繋ぐ「消極的(慎重)な人」がいるから命が絶えずに続いていく。

フグ食べて〇〇、登山や海難事故など、トライ&エラーで山のような犠牲はありつつも…
色んな体格、いろんな体質、いろんな好み、いろんな考え方の人が、グラデーションのようにたくさん存在しているからこそ、人類は「いざという時」の大激変を、誰かしらが生き残ることで乗り越えてこられたのです。

お金を持ってるか持ってないかも関係してくるのか…

「分類の力」を、何のために使うか
「間違い探し」と「仲間分け」は、数学や科学の基本中の基本です。
私たち人間は、物事を綺麗に整理して分類する、生物として奇跡としか言えないほど素晴らしい脳を持っています。
だからこそ、その高度な脳の使い方を、ちょっともったいない方向へ使ってしまいがちなのが、人間の愛らしくも不器用なところ。
せっかくの分類する力を、「あいつは自分たちと違うから排除しよう」とか、「どちらが優れていて、どちらが劣っているか」という、ちいさな箱に閉じ込めるための境界線引きに使ってしまうと、世界は途端に息苦しくなってしまいます。
本当は、その素晴らしい脳は、この世界に散らばる豊かなグラデーションを「面白いね」「なんて美しいんだろう」と面白がるためにあるはずなのに。

まぁ別にそこで、イネや小麦が(しめしめ)と思ってても、いいじゃないですか。
地球という壮大な星に、ほんのしばらくの間、優しく間借りさせてもらっている私たち。
明日も、小さなパン生地の中に暮らす菌たちの気配を感じながら、「立ち向かう格好良さ」も「委ねる心地よさ」にも耳を傾けつつ、この壮大な多様性のエンターテインメントを、のんびり面白がっていきたいと思います。

そうすると、
子どもの反抗期や自分の体重増加から精神を一部切り離すことができます。

……


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